伝統工芸でもいいではないか

ぼくは伝統工芸品というのにはあまり肯定的ではない。モノとして貴重とか価値があるとか、みんながその価値を認めているのであれば存続してよいし存続すると思うのだが、ただ永らえているから偉いというのはちょっと変だと思う。すべてを競争原理にさらせとは言わないが、少なくとも今残っている伝統工芸品だって、むかしは伝統でもなんでもなく当時の価値観のなかで優れたものであったわけで、そういう意味では、現在の価値観のなかでも優れたものであるものだけが残るのが自然だと思う。過保護は新しい文化の萌芽を摘み取る。

という一方で、伝統工芸的でもいいではないか、というようなことをソフトウェアの世界で最近考えはじめている。ソフトウェア製作という世界は、まあ言うならば民芸みたいなもので、いまそこに美とか善とかがあるとしても、あくまで実用品としての世界の中での概念だろう。

工場のようにプログラマが動員されて大量生産されるゴミのようなコードもあれば、何度も再利用される精鋭のプログラマが書いた美しいコード(とコンパイラ)があり、そのような特殊技能を持った人が作った製品が、特定の世界ではいつまでも利用される。そんな世界があってもいいのではないかと思う。例えばぼくがいまやってる関数型のプログラミング言語は、概念自体が難しい。伝統工芸で言い換えると、道具の扱いが難しい、ということにあたる。特殊な焼き物をつくるためのろくろまわしが難しい、みたいなことである。

そういった難しいものは、決して誰もが高級に使いこなせるようなレベルには到達しないが、だからといってそれ自体が滅ぶべきものとして否定されるものでもない。ただ、利用用途は分けられるべきもの、ということになるのだろう。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NC/20120920/424107/
こんな記事が出て最近は関数型の言語を使った開発が増えてきているとは言うものの、それは全体を席巻してオブジェクト指向やらの手続き型に代替するものではないと思っている。関数型言語に限った話ではないが、ソフトウェアにまつわる技術でも、伝統工芸の技術のような一子相伝があってよいと思う。単なる印象論にすぎないのだが、山奥で畑でも耕しながら黙々とプログラム開発に打ち込む、そんな職人は素直にかっこいいものだと思っている。今日で名目上は仕事納め。