憂国という言葉の持つ力

衆議院選挙の公示があった。ものすごくよく知っている友人、というのは立候補していないが、知人と呼べるレベルの人が何人か立候補したことに驚いた。
維新の会という政党にはいろんな批判があるし、近い人からも「あれはアカン」的な話を聞いたことはあるが、ぼくが直接見聞きしたわけではないので確かなことは言えない。ただ、維新の会とか維新政治塾の中身がどうであれ、それなりの人数の若者が「どげんかせんといかん!」という気持ちを持って政治に臨もうとした結果が今回の立候補であるというのは、わかる。
また、今回立候補しなかった人々にも、そういう熱い思いを持った方がいるというのも、わかる。なんというか、勝っても負けても戦わなくてもそれは抒情的なもので哀愁漂うもののような気がするし、憂国という言葉の持つ力なのではないかと思う。
ぼく自身は政治のシステム自体にかなり懐疑的で、なんかもっといい仕組みをつくることが大切なのではないかとぼんやり思っているが、そういうことと自分のいまの研究とがゆくゆくはつながっていくような気がしている。一見すると何のつながりもないことなので、まだまだ道は遠いが。

以上、未来の自分に向けての記録。