語る時代

Twitter連携したら逆にほっぽらかしになってしまった。けど、なんで1/26以降うごいていないのだろう。

さて、全然関係ないが、世の中は「語る時代」になってしまったように思う。たぶん、インターネットの影響も非常に大きいと思う。情報というものが簡単に検索して手に入るようになってしまったために、あらゆる娯楽は、それをわかりやすく文章やら動画やらで「語る」ということが重要になってしまった。

将棋はその最たるものだ。梅田望夫のような「語る」という面での重要性を説く人がいたこと、そして盤面と駒というその抽象性がインターネット中継に向いていたことから、いかに将棋について語るか、という面がクローズアップされるようになった。将棋の対局はもちろんのこと、プロ棋士が将棋について考える、語るシーンがとりあげられるようになった。

相撲にしても、やくみつるやデーモン木暮のような人が現れ、ある種のうんちくを語るようになり、まだ将棋ほどとは言わないものの、「語る」ことの重要性に協会とNHKは気づき始めているといってよい。

野球だってそうだ。名選手だからといって語れるとは限らないのだが、解説席でとにかく気合とか根性ということを言う人よりは、ノムさんのように細かく解説できる人が求められてきているように思う。

ぼく自身がそういうものを求めているから、過大評価しているのかもしれない。しかし一般論として、ある競技が長く続き成熟していくにつれ、それについて語りやすくなる、語れるような何かが生じるというのはあると思う。また、社会が安定しているということも、それを後押しする。ただ人々が熱狂すればよい、という時代ではなくなった。

で、競輪はどうなのか、ということだ。競輪場の存廃問題も大変なのだが、競輪という娯楽がこれから続いていくためには、競輪というものについて選手も語らねばならないし、ファンも語らねばならないと思う。控除率がどうこうとかそういう問題よりも大切なことがあると思うし、一ファンとして競輪について話してゆきたい。